CESC 60周年記念誌「Jump to the furure!」
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48に入ったら、自分の身体と心が包まれるような感じがしたそうです。その話を聞いて、僕はこの人だと安心だと思って認知行動療法を取り入れるようにしたんです。包まれるような感じとは、同行二人を表現しているだろうし、一緒ということもあるだろうし。 道元は自分1人で自己探求するように見えるけど、禅問答をやるときは、他己も過去も全部含めて一緒に検討しているんですよ。自分1人では禅問答は無理なんです。過去の坊主がああいった、こういったっていうことを参考にして助けられている。その辺は我々がいろいろ議論し合っていることと通底している。 仏教風に言えば「これあれば彼あり、彼あればこれあり」で、これとあれが独立して別にあることなんてあり得ない。それを直に体験するのは身体知ですよ。だからそういうことを受講生が体験できるような場になればいいのかなっていう気がします。小林 若い頃に自分の正体が暴かれた、化けの皮が剥がれたという感じになったことが記憶から蘇ってきて、それってある意味すごく孤独だったんだと思います。その正体を晒せる場に他の人がいて、オープンでいいんだみたいな、みんなとつながっているという感じが今すごくしています。村里 クライエントさんが立ち直るのは自分の孤独を自覚したときだと思います。だってその人の代わりはできないから。その人が、これは自分でしかあり得ないんだということが身体感覚的にわかったときに、この人はずいぶん前進するなという実感があります。 どうも、惨めさを作っているのは言葉らしいんですよ。言葉を人間が発明して、言葉の壁が同時にできた。人々のエネルギーが共同共感の方に向かわずに対立に向かったんだよね。 山極寿一という人類学の先生が、この間テレビで話をしていて、やっぱり結局同じことを言うんですよ。身体感覚を使う方向に行かないといけないと。身体的な共感を持てる音楽やスポーツの方向に行くことが大事、言語で絡められた合理的・論理的な、そういう近代的なものから抜けださないと戦争に行くということを、ゴリラの研究から学んだそうです。 若い人たちがそこを遮られて忘却している、それで本当の自分をその存在さえ感じられなくなっている感じで、この状態は危ないと思います。笈田 コロナを経験してみて、命のことを考えました。コロナウイルスだって生きているわけです。彼らだって生き延びるっていう方向の自己実現はあるわけです。そう考えると、命の重さってみんな同じ、ウイルスだろうが植物だろうが魚だろうが鳥だろうが、やっぱり人間だってみんな同じ。その中で人間が知的な部分だけでやってきてしまった弊害が起こっているんではないかと私は思っていて、だから知的な頭と身体をつなぎましょうというのがこのコースの一つの目的でもあります。 身体の感覚って大切だし、グループ内で自分を見ていくと、自分の身体知がとても大きく出てくるじゃないですか。そんなことも、このコースの中で皆さんでやっていけたらいいし、これからはやっぱり東洋的思想ってすごく大切になってくると思います。西洋は心身別だけれども、心身一元論のところでジェンドリンの考え方だってそんなところです。 これをすることが最終的に私の自己実現になっていく感じもしますので、ぜひ皆さんと力を合わせてロジャーズの理論PCCを理論的に

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